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会津の歴史

葦名公時代 七代葦名直盛以後十六代盛氏時代に至る約200年間は、同族互いに勢力争いをしたり、伊達氏や外部との争いがあったりで、いわゆる武士団の領地争いが行われた。
それを葦名盛氏が統一し、仙道(中通り)や越後まで領地を広め、百二十万石の戦国大名の地位まで到達したのである。
伊達公時代 会津領を入手した伊達政宗は奥羽の覇者として会津黒川城を本城とし、大勢力となったが、秀吉の認めるところでは無かった。二本松城を手にし、摺上原の戦いで葦名を破り、黒川城に入ったそのわずか一年余りで再び米沢へ帰還しなければならない政宗の宿命に戦国大名の運命を感じる。
蒲生公時代 蒲生氏郷は十三歳の折信長にその非凡を愛され、娘を与えられ妻とした。信長が本能寺の変で倒れるや、秀吉方にくみし戦功をたてた。伊勢の松坂に移り、小田原城討伐に従い、その功により会津拝領となった。氏郷三十五歳という。
殖産興業に力を尽くし、城下町の整備など、氏郷の足跡は今でも残っている。
四十歳で急逝したのが惜しまれる。
上杉公時代 氏郷の子秀行の内政は治まらず家中騒動などにより秀吉は宇都宮十八万石に転封した。その後越後春日山城主上杉景勝(上杉謙信は養父)が九十二万石で移封されて入ってきた。景勝は御館の乱で義兄弟影虎を倒し北越の守護大名となり、百二十万石の大名となって、徳川、毛利に次ぐ全国第三位となった。
再蒲生時代 関が原の戦い後、上杉氏は米沢に移され、その後六十万石として再び入ってきたのが蒲生秀行である。三代忠郷に至る二十六年間を再蒲生時代という。
加藤公時代 伊予松山から加藤嘉明が会津四十万石として入ってきた。大阪夏の陣に子の明成と従軍し、天王寺口で功をたて、会津入りを果たした。時に六十五歳であった。二代目の明成は戦国武将の最後の大名として会津経営に尽くしたが、家臣堀主人(猪苗代城主)との確執に、会津四十万石を返上した。
保科公時代 最上(山形)城主保科正之が二十三万石で会津入りわ果たすのであった。好学の大名保科正之は四代将軍家綱を補佐して、幕政の要衝にあったが、武断から文治政治へ転換させる大きな役割を果たした。会津藩政の基礎確立につくした功績はまことに大きい。
松平公時代 三代正容は将軍綱吉から松平性を与えられ葵紋の使用を許され、名実ともに家門大名としての地位が与えられたのである。五代藩主容頌のとき、藩財政の慢性的悪化、家臣や農民の困窮や極度の疲弊をすくい、藩体制の確立のため藩制の抜本的改革を行うことになった。それは藩政全般にわたるものであり、その中でも大きな柱となったのが学制改革であった。その時できた学舎日新館は当時の藩校中もっともすばらしいものと称され、会津藩の気風は日新館から生まれたと言われている。
幕末の会津 文久二年(1862)幕府は公(公家・朝廷)武(武家・幕府)合体策でたてなおそうとしたが、当面は反幕的尊攘派思想勢力を封じ込む必要にせまられていた。京都所司代や京都町奉行の実力ではその任務を果たせる状況ではなかった。幕府はその上に守護職を置き会津藩主松平容保を京都守護職にしようとした。家老横山常徳・国家老西郷頼母、田中土佐は受ければ必ず渦中に巻き込まれることを説き辞退すべきであることを言上した。しかし容保は藩祖依頼の忠誠を貫いたのである。当時二十七歳。この守護職拝命こそ戊辰の悲劇へとつづく。
戊 辰 戦 争


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